2012年5月13日 (日)

僕達急行 さよなら森田芳光

 わたしにとって、森田芳光監督と言えば、「の・ようなもの」なのです。鮮烈でした。伊藤克信というやたら目のでかい栃木弁まるだしの人が主役でした。栃木弁丸出しの人が落語家の役をやるというのもおかしい設定ですが、その落語家志ん魚が「黄金餅」の道中付を東京の街を歩きながらやるくだりが、何とも印象に残っています。実をいうとほんとにゆるーい感じの映画で、あの時代の映画の特長をよく表している映画でもありました。それ以前の黒沢明とか木下恵介とかのようなドラマティックなものではなく安保や学生運動以降の気の抜けたサイダーみたいな雰囲気をよく出していました。それで、鮮烈なの?と突っ込まれそうですが、気張って見に行ったら腰砕けというのもアル意味、鮮烈な印象と言えるのではないでしょうか。その森田芳光さんが黒沢明の「椿三十郎」をリメイクした時は驚きました。月見そばばっかり食べていた人間がいきなり500グラムのステーキを食べようとするみたいでした。まぁ。でもかなりがんばったとは思います。かなり振り幅の大きい監督でしたが、この映画が最後となりました。そして、原点に戻った感じがしました。あのなつかしいゆるーい感じが戻って来たと思いました。
「A列車、一枚。」
「はぁ?もう一度お願いします」
「A列車じゃなくてB列車だったかな....」
「サブタイトルですか」
「ここでやってるんですよね。」
「僕達急行ですか。」
「そうそう、ぼくら特急、ぼくら特急」
「急行ですね。」
「はぁ、その急行一枚ください。」
 いまから、電車に乗るのではありません。映画館でのやりとりです。覚えにくいタイトルでした。
 テツキチの映画と聞いていたので、わかるかなと思ったのですが、それほどオタッキーな映画でもありませんでした。緩くてそのうえ、ちょっと松竹大船っていう感じもあります。
 主人公の二人の青年は鉄道大好きなんですが、松山ケンイチ扮するコマチ君は音楽を聞きながら鉄道に乗るのが好き、瑛太扮するコダマ君はメカ好き。テツキチの鉄道へのアプローチは様々で、ひとくくりにはできないというのはよく聞く話ですが、なるほどなと思いました。ただ、鉄道についての愛情はみんなが持っている共通点でしょう。
 二人はとても良い青年なのですが、青年らしい悩みもあります。鉄道好きが邪魔して、カノジョができません。でも私がみたところ、そんなに目をギラギラしてカノジョを探しているとも思えません。
 車窓から眺めるとちょっと気になる風景が目に飛び込むことがあります。「あの明かりの点いている家はどんな家だろうかとか、プラットホームに立っている女性はちょっとワケアリな感じだなぁ。」とか。
 そんなとき、興味があるけど、別にそれほど無理して近づく必要もないなと思ったりします。彼ら二人も降りられるんですけど、「まぁ。いいか。」というノリに見えます。これが、森田芳光らしさです。
 コマチ君は不動産会社の社員。コダマ君は町工場の2代目。コマチ君は、九州に転勤になります。普通なら、都落ちで落胆するところですが、彼は九州の鉄道に乗れると思うとうれしくてたまりません、 一方コダマ君の工場では製品を開発するために新しい機械を導入したいのですが、銀行から融資を断られてしまいます。その上、いいなと思った御見合いの相手にもふられ、心機一転とコマチ君のいる九州まで遊びにいきます。
 二人は、九州のローカル線で旅に出るのですが、そこで、同じようなテツキチの男に出会います。筑後さんというその中年男と、二人は意気投合。筑後さんの家の鉄道模型をコダマ君が修理したこともあり、3人は気の合う仲間になりました。
 ところがこの筑後さんとの出会いが彼らの運命を変えていきます。筑紫さんは、コマチ君の会社があの手この手と交渉を続けていたソニックフーズの社長でした。筑紫さんはコマチ君やコダマ君としりあったことがきっかけで、中央進出を考え始め、コダマ君の町工場の技術が注目されることにもなります。
 大手企業に認められたことで、銀行もコダマ君の工場への融資を引き受ける事になります。その上、コダマ君がふられた相手の父親がコマチ君が手を焼いていた地主とわかり、コダマ君の助けもあり、地主のオーケーが出て、晴れて、コマチ君は大口プロジェクトを成功させてしまいます。
 この二人、仕事面では大成功ですが、結局コマチ君のカノジョ(あづさ)はサンダーバードなる外人と結婚し、コダマ君もふられたけれど気のあるそぶりだった地主の娘(あやめ)と、結局「あなたいい人ね」チャンチャンでおしまい。
 それほど、悲しいことが続くわけでもないけど、すごーくうれしいわけでもない。これが人生だ。森田さんは最後に原点に戻ったようです。ちょうど、ジオラマの列車がトンネルをくぐり、ループ線をつかって高い山へ登り、様々な鉄橋をわたって、一巡りして最初の駅に戻って来るように。

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2012年5月 3日 (木)

モーパーゴの『ケンスケの王国』を読みましたー「戦火の馬」よりいいかも

 スピルバーグの「戦火の馬」を見て、がっかりして、原作はどうなんだろうと思って、原作を読んでみました。「戦火の馬」の作者はマイケル・モーバーゴという英国の児童文学者です。彼は小学校の先生から作家になった人で、都会の子供たちに田舎の農場経験をさせる運動をしています。この活動によって、彼は大英帝国勲章を受賞しています。もちろん本業である文学でも世界のいろいろな児童文学賞を受賞しています。読んでみて思いましたが、やはり「百聞は一見にしかず」でした。スピルバーグが原作にもどって映画化していればもうちょっとよくなったのではないかと残念でした。馬の演技が立派だっただけにね。
 というわけで、「戦火の馬」以外にも何冊か彼の本を読んでみました。児童書を電車でひろげるのはちょっと恥ずかしかったですが、読み始めると夢中になってしまいました。なかでも私のお気に入りは「ケンスケの王国」です。
 イギリスに住む少年マイケルの両親はよくいえば冒険好き、悪くいえば「どうにかなるさ人生」の実践者です。有り金はたいてヨットを買い、世界旅行に飛び出します。人生の荒波を乗り切るといいますが、ほんとうの荒海にこぎだしたわけです。この暴挙で犠牲になったのが、マイケルと飼い犬のステラ。だいたい、大人の身勝手で犠牲になるのは子供と動物です。
 甲板から嵐の海に放り出され、必死にサッカーボールにしがみついていましたが、いつのまにか意識がなくなり、気がついたら見知らぬ島の浜辺に打ち上げられていました。ステラはどこだろう。英国児童文学で犬は死にません。大丈夫。(だけど、日本の児童文学だと死ぬんだよねぇ。)ステラも浜辺に打ち上げられていて元気でした。よかった!ステラは私の想像ではバーニーズマウンテンドッグのようなイメージで読んでいました。でっかくて、ちょっとたりない。遊び好きで元気なワンコ。
 さて、マイケルとステラは島の探検を始めます。彼らが放り出されたのは、オーストラリアの近くの海です。ニューギニアとかパプア諸島あたりの島のようです。島には座礁した古い鉄の船の残骸が残っていました。マイケルにはとても古い遺跡のように映ります。探検した結果、ここは誰もいない無人島だとわかります。とたんにマイケルに孤独と死の恐怖が走ります。
 「もう一生パパにもママにも会えない。ここでひとりで死んで行くんだろうか。」
 人生で誰も感じる孤独と恐怖を実際に体験します。ノドもかわいてきた。お腹も減ってきた。ああ、もうだめだ。と思ったとき、島の奥の岩屋に、食料と水を発見します。生の魚、バナナ、名前のわからない果物。二人は夢中でそれらを食べます。そして、それは誰かがマイケルのために用意してくれたことを意味していました。でも探してもテナガザルやオランウータンしか見つかりません。
 マイケルはのろしをあげて航行する船に助けを求めようと岬の高台で草や木を燃やします。すると、どこからともなく小柄の痩せた老人があらわれ、烈火の如く怒ってその火を消してしまいます。何語を話しているのかわかりませんが、怒っているのは確かです。マイケルは自分の行為を否定されてとても腹をたてます。
 「なんの権利があって、こんなことをするんだ。絶対ゆるさないぞ」と思います。
 ところが、見知らぬ人を見たら吠えるステラが全くこの老人に吠えません。それどころかどこか信頼している風情です。
 この老人はケンスケという日本人であることがわかります。やがてケンスケの洞穴でマイケルはいっしょに暮らし始めます。そしてケンスケがあんなに怒ったのは、サルを捕まえにくる密猟者に居所を知らせることになるからだと分かります。ケンスケは密猟者が来ると、密猟者からオランウータンの群れを救うために自分の洞穴にかくまうのです。ケンスケはこの島の王様でした。それはこの島を蹂躙する王様ではなく、この島の生き物を守る王様だったのです。
 あるとき、ケンスケは、守りきれなかったテナガザルが銃で撃たれて死んでいるのを見ると涙を流して悔しがるのでした。だんだん、マイケルはケンスケを尊敬するようになります。そして、荒海で漂流しているマイケルたちを助けてくれたのはケンスケだったことが分かります。そっと食料をおいていってくれていたのもケンスケだったのです。
 ケンスケはマイケルに英語をならい少しづつ会話ができるようになります。ケンスケはお医者さんで太平洋戦争のとき軍医として船に乗っていました。しかし戦争で船が沈み、ケンスケだけが無人島にたどりついたのです。その後、アメリカ人がこの島にもやってきました。ジャングルからそっと、無人島にやってくる人々の話を盗み聞きして、ナガサキに原爆が落ちたこと、日本が負けたことを知ります。ケンスケの妻や生まれたばかりの息子はナガサキで暮らしていました。家族は全て死んでしまった。日本も負けて国がなくなってしまったかもしれない。ケンスケはここに居るしかないと悟ります。自分の戦友たちはみんな死んでしまった。命を助ける役目の医者であった自分だけが生き残った。その上、生き甲斐であった妻も息子も死んでしまった。なにもできなかった自分にできることは何だろう。そうだ、ここにいる動物たちを守ろうと思ったのです。
 私の母は長崎の原爆を見ていますので、私はこのケンスケに少なからず感情移入してしまいました。(私の母はいまだにピンピンしています。念のため)
 しかし、マイケルはやはりパパやママに会いたい。内緒で、いつもケンスケが絵をかいている道具を使って、ガラス瓶に手紙を入れ、海に流します。Message in a Bottleと言う訳です。
 ところがステラがそれを拾って、ケンスケの隠れ家までもってきてしまいます。
 「ご主人様が落としたものもってきましたよ!」と得意げです。
 あーあ。ケンスケはどう思うだろう。ケンスケとマイケルの間になんとなく壁ができてしまいます。 しかし、ケンスケはマイケルはまだ少年であり、イギリスへ戻るべきだと思います。そして、あれほど嫌ったのろしをあげて、マイケルのために救助をよぼうと考えます。
 ケンスケはマイケルと仲良くなるうちに日本へ帰ることも考えます。マイケルが言うように、妻も息子も原爆で死んだとは限らない。しかし、最後にはケンスケはこの島に残ることにします。
 そして、マイケルに三つの約束を守ることを誓ってくれといいます。
 「第一にここで絵を描いていたように毎日絵を描いてほしい。きっと北斎のような絵描きになれる。」(二人は貝に毎日タコの墨で絵を描いていました。本当の水墨画ですね。)
 「第二に満月の夜には、自分のことを思い出してほしい。お互いに思い出せば忘れない」
 「第三に自分のことは10年間誰にもいわないこと。」マイケルは12歳ぐらいですから、成人するまでは言ってはならないということでしょう。
 そして、王国を守ることを選んだケンスケは助けに来たマイケルの両親の船が着いたときも浜辺にはあらわれませんでした。マイケルは成人して、ケンスケのことを本に書きます。すでに約束の10年は過ぎていました。
 ところが、その本が出版されると、オガワミチヤという人から一通の手紙が届きます。彼はなんとケンスケの息子だったのです。幸いに、ケンスケの奥さんも息子も原爆で死なずに長崎で生きていたのです。マイケルは日本へ行き、オガワミチヤさんに会います。ケンスケの奥さんは既になくなっていましたが、その息子さんの笑い顔はケンスケそっくりでした。
 「ケンスケは救助の船に乗って日本へ帰ればよかったんだ。そうすればまだ生きているうちに妻に会えたし、成人した息子にも会えたじゃないか。」という考え方もあります。
 しかし、戦争でたくさんの人が死んで行くのを見て来た彼がいま自分がやるべきことは何かと考えたとき、かれはこの島の動物たちを守ろうと考えたのです。
 私は昔、竹山道雄の「ビルマの竪琴」を読んだときのことを思い出しました。(市川崑監督の映画もありますが、私は原作が好きです。)主人公の水島上等兵が、南方で死んだ人々の霊を供養するために、ビルマに残り僧侶になる物語ですが、彼の肩には日本へ帰る戦友が贈ったオウムが乗っかっています。そしてそのオウムは
 「おーい、水島。日本に帰ろう。」と言うのです。
 それでも水島上等兵はそのオウムをかたにのせ竪琴を弾きながらビルマに残る道を選びます。
 この作者はイギリスの人なのに、昔の日本人の心情が分かっているのだと思うとびっくりです。日本は戦争に負けたし、近代の軍国主義はとんでもないしろものでした。でも江戸時代からあった、貧しくとも、潔く、美しい日本の心がこの本には描かれていると思います。英国の児童文学ですが、こんなにすばらしく書いていただいてありがとうと感謝したい気持ちになりました。

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2012年4月30日 (月)

無声映画は新鮮?−「アーティスト」は犬だった

 

cute我が家にも春がきた

Hana1
チャップリンを知らない人はないでしょう。喜劇王、無声映画を芸術まで高めた人、そして赤狩りでハリウッドを追われた人。彼は真のアーティストであったと思います。私生活では子供のときから苦労した人で本当に大道芸人からスターダムにのし上がった人です。映画の創世記だからこそ生まれた天才でした。そして、不思議なことに彼はヒトラーと誕生日も数日しか違わない同い年です。その彼が、ヒトラーをモデルにした映画で批判され、赤狩りで追放されたとすれば皮肉なことです。
 彼の無声映画時代の活躍は言わずもがなです。今でもすごいなぁと思う作品ばかりです。彼は無声映画からトーキーへ移っていくことに最後まで抵抗していたことでも有名な人です。しかし、時代の趨勢には勝てず、彼はトーキー映画「モダンタイムス」出演します。チャップリンが声を出すというだけで、おおぜいの客が見に来たそうです。しかし、彼は最後のキャバレーのショーの場面で何語が判然としないデタラメな歌を一曲歌っただけです。それでも、人々は満足し、この映画はチャップリンの代表作の一つとなりました。
 モダンタイムズは、非人間的な機械文明への皮肉が込められたものでしたが、彼がでたらめな歌をうたったのも彼の文明批判の一つだったのかもしれません。人間の声が聞けるのは映画史上において革命でした。しかし、それは差別を生み、分かる人と分からない人を生むことでした。彼がこの映画を作った1930年代というのは、経済的にも暗く、革命やファシズムや暴動そして、世界大戦がまた始まるという不安な時期でした。
 さて、『アーティスト』はその時代、まさに無声映画がトーキーに移行する時期のお話です。主役のジョージ・ヴァレンティンは無声映画のスターで大邸宅に住み、運転手つきの車で撮影所入り、プレミアのレッドカーペットのまわりには、ファンがいつもいっぱいです。そのファンの中に、ペピーミラーの姿もありました。彼女はスターを目指す新人の女優です。映画では無声映画のスタイルを通し、白黒の画面に、ときどき字幕が入るという当時の形式で作られています。
 大スターの彼にはもちろん妻がいるのですが、あまりうまくいっていません。彼の愛犬アギーとのほうが心が通じ合っているようです。
 このアギーはまたまたジャックラッセルテリアです。このごろ映画で人気のある犬種です。うちの近所でもこれを飼っている人が多いのですが、活動的な犬ですので、ちゃんと散歩させないといけません。近所にいるジャックラッセルテリアは日ごとにおなかのまわりに脂肪がついてきて、最近は丸太ん棒のようになっています。願わくば歩くより転がるほうが早いというふうにならないことを祈ります。 さて、このジョージのところへオーディションを受けに来たペピー。ダンスができるということで採用になります。ペピーにとって、ジョージはあこがれのスターですが、ジョージも彼女のことがちょっと気になっています。ダンスの場面の1カットだけなのに、なぜか二人は、楽しい気分になってOKにならず、何度も取り直しになります。テイクを重ねるたびに二人の心が通い合っていくシーンです。
 しかし時代はトーキーの時代を迎えていました。会社は彼にトーキーを撮れといいますが、彼はハナから相手にしません。「トーキーなんて作れるか」そういって、自分で無声映画を製作、監督、主演します。スターが製作、監督、主演して成功した映画はほとんどありません。そういう意味でも、チャップリンは天才なのです。しかし、ジョージはチャップリンではありませんから、当然この映画はコケてしまいます。その上、大恐慌にも巻き込まれ、ジョージは一文無しになってしまいます。奥さんは出て行き、家も家財道具も売られ、彼に残ったのは、アギーと年老いた運転手だけ。アギーは別として、給料を払えないのだからクビだといって車を退職金がわりにして、運転手も出て行かせます。
 そのころ、ペピーはトーキーの大スターになっていて、連日上映劇場の前には行列ができるほどです。そのうえ、偶然居合わせたレストランでペピーが記者たちに
 「サイレントなんてもう時代遅れだわ。今はトーキーの時代よ。」
 と話すのを聞いて、ジョージの怒りは爆発します。ペピーはジョージを傷つけるつもりはなかったのですが、ペピーに無声映画を批判されたのが彼にはショックでした。なにもかも失った彼は失意のうちに酒に溺れるようになります。
 その彼に手をさしのべたのはペピーでした。酔っぱらって倒れているジョージをペピーは自分の邸宅に連れてきます。ところが彼はペピーの家の地下室で、自分が売ったはずの家財道具を見つけてしまいます。これらは使用人に命じて、ペピーが買い取った物でした。自分は一人で生きているつもりだったがなんのことはない、犬や老運転手やペピーに守られて生かされていたのだと知ると自己嫌悪のためにペピーの家を飛び出します。そして、自分の家に戻ると、自分の作品に火をつけて燃やしてしまいます。ところが、昔のフィルムは上映中でも燃え上がるような代物ですから、部屋中のフィルムが燃え始め大火事になってしまいます。ジョージは煙にまかれて動けなくなります。
 「危うし!ご主人」
 ここで名犬アギーの登場です。家を飛び出し、警察官をよびにいきます。そして、ジョージは助け出され一命を取りとめるのです。全ての作品は燃えてしまいましたが、ただひとつ彼が胸に抱えて助かったフィルムがありました。それは、ペピーとジョージの何回も取り直したダンスの場面のフィルムでした。ペピーはジョージも自分を愛していてくれたことを知り涙を流します。そして、二人はコンビとしていっしょに銀幕へもどり、再び喝采をうけるのでした。
 というわけで、この映画は昔のハリウッド映画の要素が詰め込まれている映画です。
 スターの男と新人女優の恋。落ちぶれる男、スターになる女。名犬の活躍。ダンス。笑い。涙。
 技術的には、新しいらしいのですが、私にはわかりません。ただ、台詞のない2時間の映画を、飽きずに見させるというのはかなりの力のある映画だと言えるでしょう。ただし、刺激のない映画です。ドキドキするようなものがありません。昔の無声映画には作っている人の精一杯の様子が見て取れるのですが、これはなんと落ち着き払った映画なのでしょうか。ジョージをやったジャン・デュジャルダンは昔で言えばシャルル・ボワイエみたいな感じなのかな。いえ、いえ、それほどの知性はありません。役名から推測するとルドルフ・ヴァレンティノを考えているのかもしれません。
 ジョージの作った映画は作品としては優れていたが、時代がトーキーになっていたので当たらなかったという設定になっています。でも最初に出て来た人気のある時の役は怪傑ゾロ風なアクション活劇の主役です。遠山の金さんが、いきなり、光源氏をやれるかと思ってしまいます。
 「アーティスト」という題名は誰のことをいっているのでしょうか。無声映画にこだわっていたジョージのことでしょうか。それとも、あの時代の懐かしい映画の作り方。それを柔らかい白黒の画面に再現した制作者のことでしょうか。どちらにしても余裕ありすぎの作り方が気になります。安心して見ていられますが、それは映画の面白さを失わせることを意味します。アメリカ映画のエンターティト性もフランス映画の芸術性も中途半端でした。だからこそ、みんなあの名犬に感動するのです。犬には余裕はありません。いつも必死にトレーナーの言う事を聞いて演技していたに違いありません。その一生懸命さがおもしろさなのです。もし、アカデミー賞の選定委員にラッシーやリンティンティンが入れば、アギーが主演男優賞をとっていたでしょう。

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2012年4月22日 (日)

映画館から出たら土砂降りだった ー スーパーチューズデー正義を売った日

 この前、桜を観たついでに、『ドライブ』という映画を見ました。帰り際にとなりの映画館を見ると、大判のポスターが貼ってありました。「あれ、さっき見た俳優だ。」主役のライアン・ゴズリングが大写しになっていたので、今度はこれを見ようと決めました。
 久しぶりに、いい俳優に出会ったなぁと思っていたので、ワクワクして出かけました。席もちょっと前加減にとりました。すると、いきなりライアン・ゴズリングの顔からはじまりました。ちょっと前過ぎたので、見上げるかんじで、はずかしいくらいでかい顔に映っていました。
 「らっきょうみたい・・・」
と思いましたが、まぁ、人間は顔じゃない。演技、演技と思いなおしました。
 アメリカの大統領選の話です。日本では、国民はリーダーを直接選ぶことができないので、このシステムがいまいちよくわかりません。私の理解では、各州でリーグ戦みたいな感じで戦って、それぞれの州で、一番の得票者がその州を自分の傘下にいれていき、陣取り合戦で、いちばん多く州をとった人が勝ちというような感じです。邦題の「スーパーチューズディー」というのは、『スーパー・チューズデー (Super Tuesday) とは、アメリカ合衆国において、大統領選挙がある年の2月または3月初旬の一つの火曜日を通常さす。その日は多くの州で同時に予備選挙・党員集会が開催され、一日で最大の代議員を獲得することができる日である。そのため、各候補は自党の大統領候補としての指名を確保するためには、この日を上手く乗り切る必要がある。(ウィキペディアより)』だそうです。
 ぼんやりですが、なにやら大統領候補にとって、いちばん大事な日であり、天下分け目の戦いの日のようです。大統領候補を演ずるのが、この作品の監督でもあるジョージ・クルーニー。これ以上濃い顔はあまりないというくらい濃い顔です。この人は政治にも、とても興味があるらしく、その方面の活動も行っています。シュワちゃんと違って、もとからアメリカ人ですから、大統領になる可能性もあります。
 大統領候補マイク・モリス知事(ジョージ・クルーニー)の参謀はポール・ザラといって、この道何十年というベテランです。これをフィリップ・シーモア・ホフマンが演じています。年がいくつだかよくわからない人です。すごい情けない役もアカデミー賞候補になるような役も分け隔てなく演じます。 マイク・モリスのライバルの参謀を演じるのはポール・ジアマッティ(役名トム・ダフィー)。「サイドウェイ」で、ワイン好きの中年男の悲哀を演じていましたが、この人もフィリップ・シーモア・ホフマン同様、どんな役でもやれる怖い役者です。
 この敵同士の参謀の間で翻弄されるのが、ライアン・ゴズリング演じるスティーブン。彼は若いけれど有能なポール・ザラの部下です。マイク・モリス知事の演説原稿はスティーブンがほとんど手がけていますし、実際彼は、知事に心酔しています。アメリカの大統領選挙は相手の足をどうやって引っぱるか、どうやって抜け駆けするか、権謀術策の渦巻く世界だとよく聞きます。この映画はそれを描きたかったらしい。
 まず、有能なスタッフであるスティーブンを相手方の参謀トム・ダフィーが引き抜きにかかります。よせばいいのにスティーブンは彼の誘いにのって、待ち合わせの場所まで行きます。自分が敵側にも認められているという優越感が彼の警戒心をゆるくしたのでしょうか。その上、それをすぐに上司であるポール・ザラに話しませんでした。
 ポール・ザラはそのころ、トンプソン上院議員にマイク・モリス知事側についてくれるように説得していました。予備選に勝つにはトンプソン上院議員の支持は得ることは不可欠でした。しかし、この上院議員は見返りにホワイトハウス入りを要求してきます。それも司法長官クラスのポストを。知事は、トンプソン上院議員が大嫌い。絶対交渉はしないとポールの説得を拒絶します。
 スティーブンはトム・ダフィーから、トンプソン上院議員が敵側の買収に応じて支持を内諾していると聞いていたので、それをポールに話します。ポールはスティーブンが相手側の参謀とあったこと、それをすぐに自分に話さなかったことを責めます。そして、彼を裏切り者としてクビにしてしまいます。 スティーブンは誠意が伝わらないことに腹をたてて、引き抜きをしようとしたトム・ダフィーの事務所を訪れ、ここでスタッフにしてくれと言います。するとトム・ダフィーは今度はてのひらを返したように拒絶します。
 「敵側をくびになったヤツを雇うなんてマネはできない。」
 スティーブンを知事側の陣営から抹殺することが目的だったのです。スティーブンは自分の将来への道を全て閉ざされてしまいました。彼に残ったのは裏切り者としての烙印だけでした。
 ところがこの物語にはウラで、もうひとつの出来事が同時進行していたのです。たいていの場合、ウラには女ありです。モリーという女性スタッフが絡んできます。この人、出て来たときから目立ちます。胸はって歩くところなんかベテランのモデルさんみたいです。
 ところが19だか20だかの年齢設定です。彼女が、スティーブンを誘惑する時、この州は未成年の交際に厳しいから、車で隣町まで行ってやろうなんていっています。でも、この人そんな若い人に見えません。そのうえ、モリーはスティーブンと関係を持つ前に、あろうことかマイク・モリス知事と深い仲になり妊娠までしています。
 スティーブンに責められると、マイク・モリス知事に強引に関係を迫られたのだといいますが、「妊娠したので、おろす金をちょうだい」と知事に電話しています。
 スティーブンと関係を持つときでも、
 「貴方みたいな優秀な人を誘惑したかったの」とかなりな台詞をお吐きになります。
 だったら、知事のときもそうだったんじゃないとかんぐりたくなります。前の男に中絶のお金を無心しながら、別の男とベッドインって、相当な人です。
 スティーブンは、自分で中絶費用を工面し、病院まで付き添います。
 そして、「これで終わりにしよう。こんなことがわかったら選挙はおしまいだ。」
 そういって、モリーと別れます。その矢先、上司のポールに解雇されたわけです。
 モリーは他のスタッフから解雇の話を聞き、彼が新聞社に狙われていて、寝返った事を暴露されるらしいと聞くと、彼女は自分の責任ではないかと考えます。その上、彼女の父親も有力な政治家ですから、彼女も彼女の家族もスキャンダルの渦中にほうりこまれるかもしれません。絶望した彼女は医者にもらった安定剤を飲み過ぎて死んでしまいます。(自殺かもしれません。)
 スティーブンはその事を知って、悲しみにうちひしがれると同時に新たな闘争心を駆り立てられます。このままでは、自分の人生は全てだめになってしまう。彼にとってすでに知事は落ちた偶像です。しかし、参謀として政治の世界に生き残ることはまた別のことだとそのとき、初めて気づきます。彼から、アマチュアリズムが消え、プロの政治屋になる瞬間です。
 彼は知事を呼び出し、モリーのスキャンダルをバラされたくなかったら、ポールの代わりに参謀にしろと詰め寄ります。知事はスティーブンの要求に屈して、彼を参謀にし、ポールを解雇します。
 スティーブンはトンプソン上院議員を副大統領にする条件で見方に引き入れます。そしてスーパーチューズデーはマイク・モリス陣営の勝利のうちに幕を閉じます。知事も、スティーブンも大統領に選ばれる前から理想もビジョンもない権力の亡者となっていたのでした。
 というわけで、「正義を売った日」という副題がついているわけです。しかし、誰が誰に正義を売ったのでしょう。第一正義を売るなんて、目的語と動詞が合っていません。酸素を買って、二酸化炭素を減らすなんて訳のわからないことがまかり通る世の中だからこうなんでしょう。
 陣営同士の情報戦はかなり普通で、よくあることです。その上、前述しましたが、女性問題も実に単純で、なにか「あっ」というドンデン返しがあるのかと期待したのですが、なーんのことはない。知事は女の子をやっちゃったので、バラすという若いスタッフを参謀にするしかなかったという話です。知事はスティーブンの脅迫に応じたのですから一生このままこの腐れ縁を続けなくてはなりません。男と女が入れ替わっただけで、下半身のことでずっと脅され続ける大統領のお話というわけです。
 「まぁ。こんなに政治の社会って汚いの?スティーブンが逆転できるなんて驚いたわ。」なんていうカマトトの観客がいるとは思えません。誰もがすでに政治にうんざりしているのですから。
 余談ですが、主演のライアン・ゴズリングはあのジョージ・ブッシュに似てます。かっこいいなぁと思いながら、どこかで拒絶する気持ちがあったのはそのせいだと気づきました。演技はしっかりしているので、いつかジョージ・ブッシュの役をやってほしいと思います。偉人ではないのでやりやすいのではないでしょうか。できればプレッツェルをノドにつまらせて死にかけることろもやってほしいです。アカデミー賞がとれるかもしれません。

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2012年4月 9日 (月)

花は桜木、人は武士ー『ドライブ』 まるでサムライの映画だ

Skytree_3やっと、少し春らしくなったと思ったら、もう桜が満開です。近所の公園で花見をしてきました。いま話題のスカイツリーもここからはよく見えます。というか、我が家からはつねに見えるのですが、桜がはいると風情もまた違いますね。桜は日本を代表する花です。昔から、『花は桜木、人は武士』といわれて、散り際の美しさの象徴です。実際にそんな武士が何人いたかははっきりしませんが、すくなくとも明治以降、そんな武士はいなくなりました。そのフリをするやからは五万といましたけれども。そして、花だけが残りました。ほんとうに、桜は美しい。特に、外国で暮らしていたりすると70まで生きるとしてあと何回桜が見られるのかと数えたりしたものです。日本に帰らなければ何回見損なうかなんて考えて、妙なホームシックになったりするときもありました。
 満開の桜を眺めつつ、今回は「ドライブ」という映画を見てきました。私は予備知識なく、この映画を見たので、なにもかもが新鮮でした。この映画の主役のライアン・ゴズリングも、キャリー・マリガンも初めて見ました。そして、このニコラス・ウィンディング・レフンという監督ももちろん知りませんでした。そして、びっくりしました。とてもおもしろくて、ハリウッド映画と思えませんでした。過剰な説明は全くなく、ヨーロッパの映画のようです。
 昔『サムライ』というフランス映画がありましたが、それを思い出しました。『サムライ』はJ.P.メルヴイルの名作で、主役の殺し屋がピアノ弾きの女に関わったことから、命を落としてしまう話ですが、殺し屋の生き方がとてもスタイリッシュで印象に残る、今でも色あせない傑作です。特に、主役のアランドロンがすばらしい。私はこの俳優があまり好きではないのですが、『サムライ』は、この人以外には考えられないというほどのはまり役です。アランドロンは美男子ですが、どこか人を寄せ付けない孤独な感じがします。それがこの役とだぶって、ベストマッチしたというわけです。『サムライ』はもちろん、日本の武士道に通ずるような殺し屋の生き方を表しています。そして、死ぬとわかっていて、死地に赴くのです。まさに、「武士とは死ぬ事とみつけたり」です。
 Sakura1さて、『ドライブ』の主人公には、名前はないので、彼をドライバーと呼びましょう。彼も、ウラ稼業に関わっています。昼は、スタントマンや、車の修理をやっていますが、強盗の逃がし屋もやっています。家族もなく、名前も誰もしらない。たった一人で生きている彼は、アパートの隣に住んでいるキャリー・マリガン扮するアイリーンに好意を持っています。偶然、エレベーターでいっしょになったりすると、『今日はいい天気ね』みたいな挨拶をするだけなのですが、彼女が仕事場に行く姿を追う彼の視線が「好きなんだなぁ」と感じさせます。
 しかし、アイリーンには服役中の夫がいて、息子といっしょにその夫が出所するのを待っている立場です。彼の気持ちが通じたのか、アイリーンもドライバーに好意を持ちはじめます。そして、アイリーンの車が故障したのをきっかけに二人の距離は少し縮まります。アイリーンとその息子とドライバー。つかの間ですが、三人は本当の家族のようにドライブをし、水遊びをし、そして食事をします。
 しかし、アイリーンの夫が戻って来た事で、話は急展開します。もちろんドライバーはただの隣人に逆もどりするだけのはずだったのですが、この夫がムショにいたときの借金返済のために質屋に強盗に入るはめになります。アイリーンの夫を脅している男が、ドライバーの逃がし屋の腕を知っていて、ドライバーは心ならずも手伝いをするはめになります。好きな女のために、旦那を助けるなんて、まるで、藤沢周平の世界、まるで日本のサムライです。アランドロンの殺し屋はサムライの孤独で無常な感じが全面にでていたのですが、このドライバーはそれとは違う、
日本的な情緒が感じられました。不思議ですねぇ。日本と何の関係もないのに。Yamazakura_2
  後半はとんでもなく、暴力的です。質屋から逃げる直前にアイリーンの夫は追って来た質屋の主人に撃ち殺されます。ドライバーは仲間の女といっしょに逃げて、モーテルに潜んでいますが、どうも合点がいきません。盗んだ金の額が当初聞いていた額と違いすぎます。そのうえ、強盗が死んだだけで、何もとられなかったと質屋の主人は言っています。テレビのニュースをみながら、どうもウラがあると思ったドライバーは、仲間の女を締め上げると、なんと、その金はマフィアの活動資金だったことがわかります。マフィアの活動資金をかすめ取ろうとした奴らがアイリーンの夫を使って盗みに入らせたことがわかってきます。最初から、アイリーンの夫は殺される運命だったのです。そのうえ、その魔手はドライバーの居所もつきとめ、蜂の巣のように銃弾を浴びせてきます。
 女は死に、ドライバーは傷を負ったものの命からがら、大金をもって逃げのびます。この黒幕というのが、ドライバーの運転の腕を見込んで、レースに出してやろうとスポンサーを買って出ていたアーニーという男でした。そして、その手下だか兄弟分がスタンドプレイに走ったために、自分もマフィアに命を狙われるのを恐れ、関係ある奴らを皆殺しにして証拠を隠滅しようとするわけです。ドライバーのつとめていた修理工場のオヤジも殺され、このままでは、愛するアイリーンもその息子も殺されてしまう。ドライバーは黒幕のアーニーと差しで会って決着をつけようと考えます。アーニーは「金をこちらに渡せば、女の命は助けよう。しかし、お前の命はもらうぞ。」と言い放ちます。それでも、ドライバーは殺す気まんまんのアーニーに駐車場で金を渡します。案の定、ナイフで腹を刺されますが、やり返して、アーニーを刺し殺します。ドライバーは深手を負っていましたが、まだ生きています。夕闇の中、彼は、車を走らせます。もしかしたら、これが最後のドライブかもしれません。
 彼は、アーニーに金を渡しにいく前にアイリーンに電話をかけていました。『君といっしょに過ごした時間はいままでで一番すばらしい時間だった。でももう会うことはできない。遠いところへいくんだ。さよなら。』遠いところとはどこでしょうか。あの世かもしれません。マフィアの手の届かないどこかかもしれません。ドライバーの車は静かに走り続けて行きます。
 ちょっと残酷なシーンが多いですが、とてもいい映画でした。主役のライアン・ゴズリングがとっても人間味があります。本当はとてもやさしくて、いいヤツなのに、運命のいたずらで、こんな孤独な人生を送っているんだというかんじがよくでています。ここがアランドロンの殺し屋と違うところです。アランドロンのそれは孤独な人生を送るべくしてそこにいる男でした。もし、日本的サムライというならば、ライアン・ゴズリングの演じたドライバーのほうが近いと思いました。アイリーンを愛する気持ちの表現がびっくりするほど抑制されていて、今の日本映画にはないほど古風です。キャリー・マリガンも美人というわけではないのですが、とても魅力的です。私としては、ドライバーは闇の医者(ブラックジャックみたいな)に治療されて命を助けられ、いつの日かアイリーンに会えることを祈りたいと思いました。それにしても・・・・今日の桜はきれいだなぁ。Sakura_2

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2012年4月 1日 (日)

長靴をはいた猫−シャルルさんもびっくりの映画でした

 Photo_5私は猫が大好き。近所のノラもペットショップの猫も見てると時間が止まってしまいます。そんな私が子供のころ大好きだったのが、「長靴をはいた猫」です。シャルル・ペローの有名な童話ですが、この猫がすごい。誰だって、こんな猫を飼ってみたいと思う猫です。だって、粉屋の三男坊を本当の侯爵にまでして、王女様のお婿さんにするんです。「あげまん」ならぬ「あげにゃん」なんです。
 名前はプス(PUSS)、ブスじゃありません。粉屋の主人は三人の息子に遺産を遺しますが、粉ひき小屋とロバは二人の兄にもっていかれ、三男坊は猫を一匹もらいました。三男坊はがっかりして、「こいつを食べたらその皮で袋でも作るくらいしかないなぁ。」とつぶやきます。それを聞いた猫は「ご主人さま、がっかりすることはありません。まず私に袋と長靴を作ってください。きっとお役にたちますよ。」というのです。それまで、この猫を食ってしまおうと思っていた三男坊は猫の言う事を聞いて、袋と長靴を作ってやるのですから、この猫の話術というか説得力はただものではないことがわかります。
 プスはもらった袋で、罠をつくり、うさぎをつかまえて、王様に「カラバ侯爵の貢ぎ物です」と差し出すのです。私が子供のときもプスがなぜ、主人の名前をカラバ侯爵にしたのだろうと思いました。三男坊の名前はどこにもでてこないのですから。カバラと関係があるのかもしれません。さて、こうして袋を罠にして、プスはウズラやキジもつかまえて、そのたびに、「カラバ侯爵の貢ぎ物です」といって王様に献上します。
 物をもらってうれしくない人はいません。フランスにはきっと、日本のようなお中元とかお歳暮みたいな習慣はないでしょうから、知らない貴族から結構なものをもらったら、その人のことが気になります。「カラバ侯爵」ってどんな人だろう。第一の根回しが終了です。
 つぎに、プスは王様と王女さまが散歩をするルートを調べ、近くの川で三男坊を水浴びをさせます。そして、王様の馬車の前に飛び出して、
 「カラバ侯爵が溺れているから助けてください」と叫びます。
 いつも貢ぎ物をもってくる猫の主人が溺れている。見ると、本当に川で溺れている男がいる。ここで、王様の興味と現実が一体化します。(逆マーケティングみたいな感じです)王様に助けられた三男坊はプスに言われた通り自分はカラバ侯爵だと名乗ります。王女様はこのスッポンポンの青年に一目惚れしてしまいます。きっと、お城にはカイゼル髭をはやしたオッサンしかいないのでしょう。その上、スッポンポンだしね。へへへ。
 この青年がカラバであるということは、王様に認識させましたから、最後にプスがやるべきことは、侯爵であることを信じさせることです。侯爵であるためには領地をもっていることと、城をもっていることが必要です。そこで、プスが目をつけたのは、「人食い鬼」の領地と城です。まず、領地の農民たちに、「王様が通ったら、ここはカラバ侯爵の領地だというんだぞ。さもないとバラバラに引き裂いてしまうぞ。」といいます。「人食い鬼」の領地の農民ですから、かなり頻繁にバラバラに引き裂かれていたのかもしれません。猫の脅しが効いて、みんなカラバ侯爵の領地だと答えます。王様はもう大喜び。「こんなりっぱな領地をもってるのかこの青年は」と思います。
 さぁ、とどめの一発。王様をお城に招待して、三男坊が王女様にふさわしい男だと証明しなくてはなりません。しかし、ここの領主は「人食い鬼」です。プスは得意の話術で、「人食い鬼」の妖術をほめ、「あなたが、ライオンやゾウに変身できるのはわかりましたが、ねずみのような小さな生き物に化けることはとてもできないでしょう。」と「人食い鬼」の自尊心をくすぐります。すると、「人食い鬼」は「そんなことは簡単だ」といって、ハツカネズミに変身します。
 「どうだ!」 と言ったか言わないのうちに、プスはハツカネズミをつかまえてペロリと食べてしまいました。
 お城は三男坊のものとなり、王様は一も二もなく、王女様をカラバ侯爵のお嫁さんにしてくれと申し出るのでした。こうして、粉屋の三男坊は美しい王女様と結婚し、王様の跡継ぎとなり、そして、プスは大貴族になったのでした。めでたしめでたし・・・というお話です。
 さて、今回ドリームワークスの「長靴をはいた猫」を見たのですが、びっくりです。全然ちがうお話でした。でも、プスっていう名前を使っているということは、シャルル・ペローを意識しているということだと思います。だとしたら、これはちょっと問題でしょう。原作のあらすじでもわかるように、これをもとにして、ふくらませても面白いし、アニメーションとしても十分成り立つものです。(ディズニーだったらそうするでしょう)しかし、今回の映画では、プスは孤児で、孤児院で育ったことになっています。その孤児院時代の友人がハンプティダンプティ。例の、マザーグースに出てくるタマゴに顔のついた一等身の変なヤツです。そして、美人猫と三人でジャックと豆の木の豆を探し、その豆の木を登っていって、金のタマゴを生むガチョウを手に入れるという話です。わけがわかりません。イギリスとフランスとスペインが混じったような話で、欧州連合というかんじです。「シュレック」に出て来たプスのスピン映画なのでしょうが、私のような昔ながらの「PUSS in Boots」のファンとしてはとても残念です。到底理解できないのは、なぜハンプティダンプティが出てくるのでしょうか。マザーグースでは、塀からおちて壊れちゃうだけのヤツ(動物だか人間だかわからないので、こうしか呼びようがありません。)です。その上、ジャックがすでに大男をやっつけているから、空の上にはガチョウ以外誰もいないという設定です。映画のラストで、盗まれた金のタマゴを生むガチョウ(ひよこ)を取り返そうと、でっかい母親ガチョウが空から襲ってきます。「マザーグース」(母親がちょう)が襲って来たというダジャレなのでしょうか?こんなオヤジギャグのアニメーションを初めてみました。ほんとうに、バッドドリームワークス(悪夢みたいなお仕事)でした。

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2012年3月19日 (月)

久しぶりにいい映画を見ました-ものすごくうるさくて、ありえないほど近い

 最近、ちょっとがっかりしていました。ポランスキーやスピルバーグの映画が、どちらもいいなぁと思えませんでした。それで、この映画もどうかなと思ったのですが、予想外によかったです。最初、気が進まなかったのは、これが9.11をテーマにしていることでした。過去にもいろいろな作品がありましたが、あまりに生々しい記憶があるので、いまさら、あの高層ビルが崩壊するところを見せられてもという気持ちがあって見る気がしませんでした。しかし、すでにあれから、10年の歳月が流れました。そして、私たちには、3.11がおこりました。アメリカの人が「あの日」を境にして、何かが変わったように私たちも、「あの日」から、何かが変わりました。
 「えーと、ありえないほどうるさい1枚ください。」
 「はい。御座席はどのへんがよろしいですか。」
 「えーと、この辺かな。」
 「その辺ですと、H-8、9、10のあたりがまだ空いておりますが。」
 「じゃ、ここで。」
 「かしこまりました。15分前から入場できますので、どうぞ御楽しみください。」
切符を見たら、ありえないほどうるさいんじゃなくて、ものすごくうるさくて、ありえないほど近いという題でした。まあ、どちらでもいいけれどこの題名はなんのことをいっているんでしょう。とても意味深な題名です。
 主人公はニューヨークに住む、11歳の少年です。少年の名前はオスカー。とんでもなく早口でおしゃべりです。このごろ、こういう少年や青年がよく映画に出てきます。少し情緒不安定で、自分の中に入り込んでしまうタイプ。アスペルガー症候群の検査をしたが不確定だったとオスカーは自分で告白していますが、健常者とのボーダーなのでしょう。知能がかなり高いのは、小学生なのに、緻密な分析やデータの収集をしていることからも分かります。ただ、その手法がちょっと凡人には最初のみこめません。
 彼はいつも、父親とゲームをやっていて、『ニューヨーク謎の第6行政区』を探しているのですが、その探索中にあの事件がおきました。宝石商の父親はオスカーにとって、唯一の存在です。父親であり、友人であり、理解者。父をなくしてから、余計に自分の世界に入り込むようになったオスカーを誰もが、守ろうとしています。向かいの部屋にいるおばあちゃんは、孫からくる真夜中の無線電話にも飛び起きて応対します。
 「あの棺の中にはなんにもはいっていないじゃないか。」とパジャマ姿でふてくされて、車から父親の葬儀を見るオスカー。でも誰もなにもいいません。実際、父親の遺体は見つかっていません。いつの時代も世界のどこかで、事故や災害に会った人々によって、こんな葬儀が行われていることでしょう。
 彼には秘密があります。1年前のあの日、学校から彼が帰った時、父の最後のメッセージが留守番電話に録音されていたのです。しかし、その録音の声を誰にも聞かせず、自分の部屋の中に隠していました。彼は、まだ、第6行政区を見つけていません。どこかに父のメッセージがあるはずだと思います。そして、父の部屋にはいり、家捜しをしているとき、誤って青い花瓶を棚からおとしてしまいます。すると、その割れた花瓶の中から、鍵がはいった袋が出てきました。その袋には「black」いう字が書かれています。彼はこれこそ父のメッセージだと感じます。手がかりは「black」という文字だけです。彼は、電話帳から「black」という名前を全部書き出すと、リストを作り、毎日何件というノルマを設定し、鍵のことを知っている人物を探すことにします。この辺の計画は異常に緻密すぎて私にはついていけません。オスカーは、なになに記念日が繰り上げになったから学校は休みなんだとかなんとか、誰にでもわかるような嘘を並べ立てて、「black」さん探しに熱中します。
 「父は、9.11でなくなったんですが、その父が残したこの鍵をしりませんか。」と、ドアを開けた人に、いきなりまくしたてます。どんなに、アメリカ人がオープンな性格だといっても、「black」さんだというだけで、ズカズカと部屋の中にはいってくる彼の話をちゃんと聞き、応対してくれる人々に私は驚きました。日本だったら、交番につれていかれるのではないでしょうか。500人近くの人を訪ねるなんて尋常ではできません。彼は目的のためにこのような大胆な行動をとれるのに、他人を心の中に入れるのには抵抗があります。それで、彼は、おばあちゃんと、死んだ父と、母以外の人々とうまくつきあえません。ただ、母に対しては特別の感情があって、愛されていないと思い込んでいる様子です。そのオスカーがいつものように向かいのおばあちゃんに懐中電灯で、信号を送ろうとしたとき、そこに見知らぬ人の影をみつけます。誰なんだ。
 おばあちゃんは間借り人だといいます。
「なんで、知らない人に部屋を貸すの?」オスカーはその間借り人が怪しいと思います。
 ある日、おばあちゃんを訪ねると、おばあちゃんは留守で、その間借り人のおじいさんがいました。そのおじいさんは、声がでません。オスカーと筆談を始めます。オスカーはこの老人に自分が父の鍵を持っていて、その手がかりは「black」という名前だと話します。老人はこの「black」さん探しに参加すると言い出します。オスカーはちょっと足手まといだと思いましたが、「まぁいいか」と承諾します。
 しかし、このおじいさんは地下鉄に乗りたがるし、すぐ、コーヒーショップで休みたがります。オスカーにとっては、地下とか人ごみの中は苦手な場所です。それに、何度もコーヒーなんて飲んでいたら一日のノルマを達成できません。イライラしますが、いっしょに歩いているうちにこのおじいさんの首をすくめる癖が、父のそれとそっくりだと気づきます。そして、ドレスデンにいたこと、おばあちゃんがこの老人のこと隠したがることなどから、どうもこの人がおじいちゃんではないかと考えるようになります。
 ドレスデンはドイツにありますが、第2次世界大戦末期に連合国側の無差別爆撃に遭い、ほとんど全てが破壊された都市です。これによって、終戦が早まったと、連合国側はいうでしょうが、ドレスデンは美しい街でした。長崎や広島がそうであったように。そして、沖縄、東京。ほとんどが非戦闘員の死によってあがなわれました。でも、負けるということはそれを飲み込んで耐えるということなのです。おじいちゃんの人生はきっとその時代と関わりがあったのでしょう。
 オスカーは「black」さん探しに疲れてきます。そして、おじいちゃんらしき人に聞きます。
 「この鍵で開けられるものはあると思う?」
 おじいちゃんは左手をあげます。てのひらにはYESの文字。
 「じゃあ。ぼくに見つけられると思う?」
 おじいちゃんはちょっと考えていますが、右手をあげます。てのひらにはNOの文字。
 オスカーはおじいちゃんに、ある写真を見せます。それは、9.11のワールドトレードセンタービルの ビルから落下していく人の写真です。
 「この写真、パパに見えない?」
 「似てるでしょ。最大に拡大してみるんだけど、はっきりしないんだ。」
 おじいさんはショックです。どうしてこの子は悲しみの傷口をこじあけようとするのだろう。そして、おじいさんには耐えられないことをオスカーはします。自分がかくして、誰にも聞かせなかった父の留守番電話の録音を聞かせるのです。
 「誰もいないのか。オスカー、オスカー。まだ帰ってないのか。パパは大丈夫だ。また電話する。」 声の外では、人の泣き叫ぶ声や、救急サイレンの音がしています。そして、なにやら建物が壊れる音もします。留守電は6回ありました。そのたびに父の声は苦しそうになっていきます。きっと、ビルの中は火災の煙で充満していたのでしょう。その声をききながら、おじいさんは我慢の限界に達していました。メモに書きます。
 「やめなさい。やめなさい。もういい」
 おじいさんは、息子の最後の声を聞きながら声にならない嗚咽をもらします。おじいさんの脳裏に、自分が若い頃に味わったドレスデンの風景がよみがえってきたのかもしれません。その晩、おじいさんは、おばあさんの部屋を出て行きます。オスカーはタクシーに乗って出て行こうとするおじいさんに叫びます。
 「あなたはおじいさんでしょ。あなたがいないせいで、パパはとても苦労したんだ。ほんとは大学で勉強して学者になりたかったのに、家族をささえなければならなかったんだ。だから宝石商になった。そして、あんなことになったんだ。なのに、おじいさんはまた逃げるの?」
 おじいさんはメモに書きます。
 「ごめんよ。もう君を助けることはできないんだ。」
 深い悲しみを抱えて、おじいさんは去っていきました。
 その後、オスカーは父が残した新聞の切り抜きの中に、遺品整理のオークションの記事を発見します。オスカーがいつも見ていた記事の裏側でした。人生はわかりませんね。そのオークションを開いた人はオスカーが一番最初に訪ねた「black」さんの旦那さんでした。正確にいうと、元旦那です。最初に訪ねた時、「black」さんの旦那さんは家から出て行こうとしていた時でした。
 オスカーから電話を受けると、「black」さんは、すぐに彼を「black」さんの元旦那さん(めんどくさいのでミスター「black」さんと呼ぶ事にします。)のところに連れて行きます。ミスター「black」さんは会社の社長さんらしい。とても素敵なオフィスの中にいます。でも、オスカーが入ってくるのを見るとそっとウイスキーの入ったタンブラーを隠します。あまり楽しい生活ではないようです。オスカーが例の鍵を見せると、ミスター「black」さんはホッとしたような顔をして、
 「ありがとう、これは僕の探していた鍵だ」といいます。
 ミスター「black」さんの話によると、あの青い花瓶は彼のお父さんの遺品だったのです。ミスター「black」さんはお父さんとあまりうまくいっていなくて、お父さんの遺品を全部オークションに出して売ってしまったのです。ところがその後、死んだお父さんの手紙が出て来て、お前に遺したいものは皆貸金庫に入っている。その鍵は、青い花瓶の中だと書いてあったのです。しかし、その青い花瓶は遺品整理のオークションでオスカーのお父さんが競り落としていました。(実際はただでもらったのです。)ミスター「black」さんは、慌ててオスカーのお父さんを探しましたが、みつかりません。そして、あの事件がおこりました。9,11の後に街を埋め尽くした、たくさんの尋ね人のビラをみながら、ミスター「black」さんはあきらめてしまったのでした。
 「じゃぁ。この鍵はぼくのパパの鍵じゃなかったんだね。」
 ミスター「black」さんはオスカーをなぐさめようと、
 「君といっしょにこの鍵で開けようよ。」といいますが、オスカーにはそんな気持ちはなくなっていました。そして、それまで突っ張っていたオスカーの心に変化があらわれます。気がゆるんだのか、オスカーはこのミスター「black」さんに、本当の秘密を打ち明けてしまうのです。
 9月11日のあの日、父から電話がかかってきた時、オスカーはその場にいたのです。しかし、テレビのニュースや周りの騒音におびえて、彼はその電話をとれませんでした。オスカーのような少年は直感力がとても鋭い。きっと、その電話がどんなに恐ろしいことを伝えているか、すぐにわかって、体が動かなくなってしまったのでしょう。ママやおじいさんに対してひどいことをいったけれど、それは自分がお父さんにひどい事をしたことの裏返しでした。オスカーは自分を許せなかったのです。それで、はじめて会ったミスター「black」さんに聞くのです。
 「僕のことひどいと思う?」
 ミスター「black」さんは黙ってオスカーの肩を抱きます。ミスター「black」さんも自分の父親に対して同じような後悔をもっていたのでしょう。誰もが、なにかしら自分を自分で許せないと思う秘密を持っているものです。
 さて、オスカーは例の鍵が全く父とは関係なかったことを母親にはなします。しかし、母はオスカーの「black」さん探しを最初から知っていました。そして、オスカーが訪ねる前に彼が来る事を「black」さんたちに説明して了解を得ていたのです。
 ああ、そうかと思いました。そうでなければ、あんなにすんなり、みんながオスカーを受け入れてはくれません。オスカーはがっかりすると同時に母が自分のことを愛してくれていることを実感します。安心しきったような顔で、母のひざで眠ります。彼が、この1年で初めて味わった安息かもしれません。
 彼は、自分が訪ねた「black」さん全てに感謝の手紙を送ります。「black」さんたちは、彼の手紙を読んで誰もが幸せな気持ちになりました。それは、誰もが「あの日」のことを覚えていて、「あの日」に父を失ったこの少年に心のつながりを感じていたからです。そして、あの「black」さんとミスター「black」さんも、もう一度やり直そうとしているようです。オスカーは、おじいさんにも手紙を送りました。「戻って来て」と。しばらくして、また、おじいさんは、おばあさんの部屋の間借り人になったようです。
 オスカーはというと、第6行政区の謎をついに解きました。それは、父がよく乗っていたブランコの踏み台の裏ににありました。
 「君は、とうとう謎をといた。この調子これからもがんばってくれたまえ。」パパのメッセージを見つけたオスカーは、それまで、怖くて乗ることもできなかったブランコをおもいっきり大きく高くこぐのでした。
 ものすごくうるさいのは、オスカーのことでしょうか。ありえないほど近いのはパパの思い出でしょうか。それとも母の愛情?どれも当てはまるようで全部違うようにも思えます。ただ、いえることは、オスカーが外の世界へ一歩踏み出したということです。悲しみを乗り越えたとはいいたくないです。乗り越えられるものではないからです。でも、前へ進むことはできます。誰もがどこかでつながっているという勇気を与えてくれる映画でした。

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2012年3月13日 (火)

馬をマペットにしようとした監督ー戦火の馬

 WAR HORSE マイケル・モーパーゴ の児童小説の映画化です。この作家の作品はとても評価が高いのですが、残念なことにまだ、読んだことがありません。これを機会に読みたいと思っています。戦火の馬を初めて知ったのはテレビでトニー賞の授賞式を見たときでした。作品賞をとったWAR HORSEの中の馬が舞台でデモンストレーションを行ったのです。馬といっても三人の人が操るマペットでした。それが実によくできていて驚きました。全身が網状の針金でできていて、それにレザーが貼付けてあるものです。レザーはマバラにしかついていませんから、中がガランドウなのがわかります。しかし、その骨格いかにも実際の馬そのもので、動きも、まるで馬です。歌舞伎のように、 オイチ二、オイチ二と前後の馬の足が行進したりしません。作品賞をとった大きな要因は馬の完成度の高さであったと思います。なぜなら、この作品は馬が主役だからです。
 さて、映画はというと、残念ながらアカデミー賞は取れませんでした。主役は実際の馬が演じました。舞台と映画の内容はほとんど変わってないらしいです。でも原作は馬が話す形をとっているそうです。まだ、読んでいないのでさだかではありません。
 監督はスティーブン・スピルバーグです。あまりにも有名な人です。動物を超えた動物を描かせると彼の右に出るものはいません。サメ、恐竜、宇宙人そして、トレーラー。彼の初期の作品で、「激突」という傑作がありますが、まるで、トレーラーが生き物のように主人公を襲ってきます。運転手の顔をいっさい映さないので余計に怖いという作品でした。そのころから今にいたるまで、アクションシーンについては天才的な人です。
 さて、今回は馬です。動物そのものです。サメや恐竜とは違います。馬は美しい。犬や猫もかわいいですが、人間が家畜として飼っている動物のなかで、馬ほど美しい生き物はないと思います。もちろん、調教もできます。競争させることは言うに及ばず、ダンスすることもジャンプすることもできます。そして、全てが芸術の域です。スピルバーグはこの美しい生き物、馬を使って、どのような映画を作ったでしょうか。
 馬の名前はジョーイ。イギリスの農村で生まれたサラブレッド。ジョーイが生まれてまもない頃から、いつも遠くで彼を見つめていた少年がいました。少年の名前はアルバート。小作農家に生まれた貧しい少年です。でも、ジョーイが大好きで、暇さえあれば彼のところへやってきました。でもお母さん馬はこの少年が気に入らないのか、ジョーイと遊ばせてくれません。
 ところが、運命とは不思議なもので、ジョーイは馬市でこのアルバートの父親に買い取られます。アルバートの父親は酒飲みで足が悪く、ちょっと世をすねたようなところがあります。だから、大嫌いな地主がジョーイをほしがっていると知ると、ムキになって、周りの制止を振り切って、ジョーイを競り落としてしまうのです。しかし、ジョーイはサラブレッドですから、農耕馬にはむきません。その上、予定の倍の金額を支払うはめになります。でもアルバートは天にも昇る気持ちです。大好きなジョーイが自分のものになるのですから。地主は馬を渡すなら、小作料を待ってやろうと持ちかけます。父は荒れ地を開墾して、かぶを植えて、小作料を払うといいます。そこで、意地悪い地主は、じゃぁ半年まってやろうといいます。地主にはとうていそんなことはできないとわかっていたからです。
 ちなみに、農耕馬として使われるのはペルシュロンとよばれるでっかい馬です。ばんえい競馬で使われてます。サラブレッドは乗馬か、せいぜい郵便馬車をひく馬です。まして、ジョーイは人を乗せたこともない馬です。鋤をひいて耕すなんてとても無理でした。しかし、アルバートは必死でした。開墾しなければジョーイを奪われるばかりでなく、この土地からも家族もろとも追い出されてしまうのです。 アルバートは嫌がるジョーイになんとか鋤を背負わせて開墾を始めます。見物人は冷やかし半分に柵の外で見つめます。地主はつぶやきます。
 「きっとあの馬はつぶされてしまうさ。」
 ジョーイは鋤を牽きますが、上滑りするばかりです。でも、ジョーイはアルバートのためだと思っているのでしょうか。必死で前へ進もうとします。この場面はとても痛々しく、もしかしたら、戦争の場面よりかわいそうなくらいです。
 その時、にわかに雨が降り出します。すると、土が柔らかくなったのか鋤が土に食い込み、耕すことができるようになります。アルバートとジョーイは荒れ地を開墾することに成功します。しかし、天候不順のために、かぶは腐ってしまい、小作料を払うことができません。困った父親はアルバートに無断で、ジョーイを軍に売ってしまいます。
 そのころ、第一次世界大戦が始まっていました。20世紀、大量殺人の時代の幕開けでした。そして、ジョーイは軍馬となって、大陸にわたり、戦火の中を生き抜いていきます。アルバートは再会できると信じてジョーイの鞍に父の大隊旗(父は、トランスヴァールの戦いに出兵したときに名誉の負傷した)を結びつけます。
 それからのジョーイの転戦はとんでもないものでした。最初、イギリス将校の馬として、騎兵軍団の一員となります。そこで、戦友ともいえるトップソーンという黒い馬と出会います。しかし、ドイツの野営地に突撃した将校は敢えなく戦死し、ジョーイとトップソーンはドイツ軍にとらえられます。そこで、少年兵の兄弟に出会うのですが、彼らはジョーイとトップソーンに乗って脱走を企てます。フランスの農家の風車小屋に隠れていたものの、兄弟は見つかり銃殺されてしまいます。小屋に隠れていたジョーイたちは助かり、その小屋にやってきた、老人と孫の少女の救われます。しかし少女と戯れる楽しい日々は長く続きません。ドイツ軍が略奪に現れます。食べ物や道具は皆略奪されます。馬たちはかろうじて助かったものの、後日見つかってしまい、今度は重い大砲を牽かされることになります。傷をおっていたトップソーンをかばって、ジョーイは重い大砲を牽きます。(アルバートともに牽いた荒れ地の鋤を彼は思い出していたのかもしれません。)
 戦況は連合国側に傾き、ドイツ軍は敗走しはじめます。ジョーイたちもドイツ軍に従って、昼夜を問わずの行軍を強いられます。弱っていたトップソーンは力つきてジョーイの目の前で死んでしまいます。このままでは、ジョーイも射殺されてしまうと思った、馬係のドイツ兵は「逃げろ」と叫び、ジョーイの手綱を離します。ジョーイは戦車に追われながらも、前線を狂ったように暴走し始めます。彼はアルバートに会いたいと叫びながら疾走しているようでした。塹壕を飛び越え、有刺鉄線を体中に巻き付けて、血だらけになりながら、それでもアルバートを追い求めて、戦場をひた走ります。
 そのころ、アルバートはジョーイを追って、兵士となり、西部戦線の塹壕の中にいました。アルバートもジョーイと同じように、死と隣り合わせの日々を送っていました。
 西部戦線の朝もやの中にイギリス兵がなにか黒いものを見つけます。最初は牛かと思って見ていると、どうも馬のようだと気づきます。馬らしき物はイギリス軍とドイツ軍の中間地点でもがいていました。ドイツ軍の兵士たちもその馬に気づいていました。しかし、ちょうど両軍の中間地点にいるその馬を両軍ともどうすることもできません。ところが、その馬が必死に立ち上がろうとする姿は、両軍の兵士たちは不思議な感動を覚えます。そして、奇跡がおきました。
 イギリス兵の一人が白い旗を持って、その馬に近づこうとします。ドイツ兵はイギリス兵を撃とうとしますが、引き金を引くことができません。イギリス兵は馬に近づきますが、その馬が鉄条網でがんじがらめになっているのを見て、
 「かわいそうに。カッターがあればなぁ。」とつぶやきます。すると
 「カッターならあるぜ。」
 と声をかけるものがいます。振り向くと一人のドイツ兵がカッターをもって立っています。
 二人は馬に巻き付いた鉄条網を外し始めます。
 「一本じゃ無理だな。もっとカッターがほしいな。」
 すると何本もの、カッターが投げ込まれます。二人はそれを使って馬を助け出しますが、その馬の所有を巡って言い争いをはじめます。
 「この馬は、イギリスから連れて来た馬なのだから、イギリスのものだ。」
 「それはおかしい、ここはドイツの陣地だ。それにカッターを持って来たのは我々ドイツ軍だ」
 二人ともゆずりません。
 「じゃあ、コインを投げてきめよう。」
 「コイン?イギリス人のやりそうなことだ。よかろう。これでいいか?」
 「いいよ君のコインでいい。」イギリス兵の投げ上げたコインが落ちて来たとき、
 「チッ、この皇帝の顔にはいつも煮え湯をのまされるよ。君の勝ちだ。」
 ドイツ兵はそういって、負けを認めます。二人の兵士は握手をして、別れ、ジョーイはイギリス軍の手にもどります。
 そのころ、アルバートは毒ガスのために一時的に目が見えなくなっています。ジョーイが連れてこられたのに、アルバートには見えないのです。ジョーイにも危機が迫っていました。有刺鉄線の傷が破傷風を引き起こしていました。
 軍医は「馬に使う薬はない。射殺するよう」にと言います。仕方なく、兵士がジョーイのこめかみにピストルを当てた時のことでした。アルバートは目は見えませんでしたが、この陣営に「奇跡の馬」やってきたという話を聞いて、ジョーイをいつも呼ぶときのように口笛を吹きます。
 すると、射殺されそうになっていたジョーイはその音に引っぱられるようにアルバートに近づきます。そして、かれらは再会します。アルバートはジョーイの4本の足に白いソックスがあり、眉間にも白いダイアモンド型のマークがあるはずだといい、これは僕が育てた馬だと主張します。
 泥だらけの馬の足に水をかけると白いソックスが現れ、額を拭くと美しいダイヤモンド型のマークが現れます。部隊のみんなに静かな感動が巻き起こります。この馬は正真正銘の奇跡の馬だと誰もが認め、何としても死なせてはならないと考えました。しかしまだまだ、めでたしめでたしではありません。イギリス軍側が勝利したのち、軍馬は競売にかけられることになるのです。ジョーイも競りに参加しましたが、なんと、あのフランス人の老人が孫のためにとジョーイを100ポンドの高値で競り落としてしまうのです。ジョーイは最初から最後まで競りに振り回されます。アルバートは仕方なくジョーイを老人にゆずることにします。ところがジョーイはたまりません。
 「あんな死ぬ思いをして戦場を駆け抜けてきたのは、君に会うためだったのだ。君はいったい何を大人ぶっているんだ!ぼくを連れてかえってよ」と抗議するような素振りを見せます。
 その様子を見た老人はジョーイがつけていた旗を思い出します。ジョーイを助けた時にその旗をポケットに突っ込んでいたのです。老人はアルバートに
 「この旗を知っているか」と訪ねます。
 すでに目が見えるようになっていたアルバートは
 「ああ、これは父の大隊旗です。ありがとう」といいます。
 そこで、老人はジョーイの気持ちを全て理解します。そして彼が起こした奇跡の意味も。
 「この馬は君のものだ。馬が幸せになったことを知ったら孫もきっと喜ぶだろう。」
 そういって、馬をアルバートに返すのです。そして、ジョーイはアルバートとともに故郷に帰ったのでした。
 なかなか感動的な話でしょう。でも、ちょっと奇妙な映画でした。スピルバーグは、馬にマペットの動きをさせようとしています。舞台のWAR HORSEの一部を動画サイトで見たのですが、まったく映画と同じです。子馬のジョーイが初めて、アルバートに心を許す場面のやりとりが全くおんなじなのです。ディズニーは、アニメーション制作する場合に、スタジオに動物を連れて来て、その動きを写して作品を作っていたのは有名な話ですが、スピルバーグはその逆をやったのです。
 アルバート役の俳優はだいぶ感じが違うのに、ジョーイを演じた三人遣いのマペットと、本当の馬が演じたジョーイが全くおんなじ演技をします。本物の馬にマペットと同じ演技をさせるのはいかに難しかっただろうと感心します。スピルバーグは完璧主義者としても有名ですが、まさにあらぬ方向にこの完璧さが向いてしまったようです。舞台は急に話が転回して、暗転しても観客は舞台だからと納得します。映画はフィクションであっても実写の要素を持ち合わせたものです。特にこのような作品を映画にするのなら、童話にしてしまってはダメです。とても出てくる人間が希薄になります。昔から、「泣く子と動物には勝てない』と言われます。なにもしなくても、なにも言わなくても、動物はいるだけで、人にものすごいインパクトを与えるものなのです。舞台の馬は作り物です。作り物が馬と同じ動きをするといって、みんなはびっくりしたのですが、馬にマペットの演技をさせて、どうするのでしょうか。観客の一人が「ディズニー映画だからこんなもんだね。」と言っていました。しかし、その昔私が感動したディズニー動物映画には、優れたものがたくさんありました。舞台にひきずられずに、自然のままの馬を描いてほしかったと思いました。

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2012年3月 8日 (木)

ポランスキーが遠くへいっちゃったーおとなのけんか

 ロマンポランスキーという監督を皆さんは知っていると思います。とても有名です。いろいろな意味で。
 私が子供のころ、とても怖い事件がありました。彼の奥さんが、変質者に殺されたのです。まるで、ホラー映画のような殺されかたでした。そのころ、ポランスキーは『ローズマリーの赤ちゃん」という作品でとても有名でした。ローズマリーという女性が妊娠するのですが、まわりで変なことばかりが起きて、どうも、自分の赤ちゃんは悪魔と関係があるらしいと考え始めます。そして自分の愛する夫が悪魔に我が子を売ったことがわかります。彼女はショックですが、それでも子供を生みました。そして....というお話です。今だったら、よくある映画じゃないと、みんな思うでしょうが、当時はとても斬新でした。ローズマリー役のミアファローが痩せて薄気味悪い感じがするので、余計怖い。ただし、この映画は、ローズマリーという女性の妄想という見方もできる映画で、かなり、理性的な面も持っていました。
 実際に起こったシャロンテートというロマンポランスキーの奥さんの惨殺事件はただただ残酷で理性のかけらもない憎むべき事件でした。ところが、事件に彼の作る作品とどこか似通った面があったので(殺された奥さんも妊娠していました)、興味本位の取り上げられかたをして、気の毒なかんじがしました。
 さて、その後も、悲劇を乗り越えて、ポランスキー監督はかなりいい作品をつくり続けてきました。私は、なんといっても、「チャイナタウン」が好きです。スタイリッシュで、切なくてかなしい作品でした。役者もすばらしかった。ジャックニコルソン、フェイダナウェイ、ジョンヒューストン。ジョンヒューストンはあの「マルタの鷹」や「黄金」の監督です。ポランスキーは悲劇から立ち直って、すばらしい監督になったんだと思っていました。
 しかし、その後、子役の少女を強姦した容疑で、収監されそうになり、彼はアメリカから逃亡しました。それ以来彼は、フランスで暮らしています。彼はもともとポーランドの出身でしたから、元に戻ったともいえます。
 それにしても、不思議な人で、名誉と屈辱、栄光と挫折をいつも両手に持って生きている人です。その後も「戦場のピアニスト」という実在のユダヤ人ピアニストの話でパルムドールをとったりしています。(彼自身もユダヤ人で戦時中迫害を受けていました)最近も評価の高い作品を発表しています。「ゴーストライター」そして、「おとなのけんか」。
 ここまで書いてくると、今度の映画もとても素敵だと言いたいのですが、私はかなり違和感を感じました。ポランスキーの変化に私はついていけません。戯曲の映画化ですから当たり前ですが、舞台のような映画です。二組の夫婦がくりひろげるけんかです。ケガをさせられた子供とケガをさせた子供の親たちの示談の話です。最初は友好的だったのですが、だんだん自分たちのエゴがでてくるようになり、果てしない言い争いを繰り返していくうちに、夫婦げんかも誘発してめちゃくちゃになっていくというものです。80分ぐらいの短い映画ですが、その間4人の男女が延々としゃべり続けます。そのうえ、ゲロをはき、携帯を花瓶に投げ込み、すごい形相で、泣きわめきます。ジュディフォスター、ケイトウィンスレット、クリストフヴァルツ、ジョンライリー、みんな演技派とよばれる人たちです。演技派に演技をさせてはいけません。
 劇場では、かなり受けていて、映画には珍しく笑い声がここかしこで起こっていました。しかし、私はだめ。笑えません。なぜ、橋田壽賀子ドラマみたいなものを、お金を出してみなければならないのかと思ってどうしようもない気分になりました。まして、これを作ったのがポランスキーです。私には何も考えられなくなりました。「ゴーストライター」を見たときも、これがポランスキーなのとびっくりしたのですが、もっとびっくりしました。劇場からでたときも、気持ちの悪いゲロの記憶しかなく情けなくなりました。
 そして、ひとつ気づいたのですが、ポランスキーはアメリカが舞台の映画をヨーロッパで撮っているのだということです。彼はアメリカに行けば即捕まってしまいますから、ヨーロッパで撮らざる得ません。アメリカとヨーロッパなんて似たようなものだと私は考えていましたが、ポランスキーのような立場で撮ると、こんなにもアメリカの匂いがしなくなることに驚きました。その昔、彼がとっていたニューヨークや西海岸の風景は彼の中にはなくなってしまっています。忘れてしまったのだと思います。
 アメリカの人が西部劇をニュージーランドで撮るとしても、かならず、アメリカの匂いがします。しかし、ポランスキーの前作、「ゴーストライター」を見た時も思ったのですが、宇宙のどこかの星で撮影したと思えるぐらい匂いがありませんでした。今回は劇場で、上演された戯曲そのもののような作品です。その昔、黒沢明がカラー映画を撮るようになって、変質してしまったときのことを思い出しました。舞台と映画の決定的な違いは匂いと風です。舞台では、俳優の匂いがそのまま観客に伝わり、俳優と観客の間で風が起こります。でも、映画はそうではありません。匂いや風を映画作者が観客に提示しなければならないのです。3D映画だって、飛び出すだけです。しかしそれだからこそ、映画は監督のものなのです。ポランスキーの「チャイナタウン」は映画の匂いがしました。でもこれは、おばさんの昔話なのでしょう。おおかたの人は優れたいい映画だといっているんですから。寂しいけれど仕方がないと妙に悲しくなってしまいました。次回はもっと元気が出るような映画を見ようっと。

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2012年2月28日 (火)

またまたオヤジの映画ですーキツツキと雨

 私はもともと田舎の出なので、里山には郷愁があります。特に子供の時の思い出は、いやだったり、つらかったりしたことが削ぎ落とされているからなおさら美しくメルヘンチックになります。実際は人間関係が結構大変なのです。
 今回は『キツツキと雨』という映画を見てきました。田舎の話です。田舎にロケに来た映画の撮影隊の話です。そして、映画の撮影隊に遭遇した木こりの話です。木こりといっても、日本昔話のように斧で木をきるのではなく、ちゃんとヘルメットをしてチェーンソーを使います。役所広司がこの木こりのオヤジを演じているのですが、かなりチェーンソーの扱いはうまいと思います。この木こり、職業柄、天気の予知能力があります。雲を見てどんなに晴れていても「雨が降るぞ」と言うと、30分もせずに雨が降り出します。それで『キツツキと雨』です。
 この男、奥さんに先立たれてから、息子と二人暮らしです。息子は就職先を1年ちょっとで辞めて、田舎に帰って来ています。朝早く、オヤジさんは自分で、弁当を作り、朝の支度を済ませて、まだ眠っている息子にブツブツ文句いいながら仕事に出ます。
 今日も、いつもの仕事です。木を切り、搬出し、製材所へもっていく。ところが、変な男が現れます。ハンチングかぶって、ペラペラのアノラックなんか着て、いかにも映画関係者です。台本をポケットにつっこんでいます。
 「ちょっと止めてくれません。」
 ニヤニヤ笑いながら話しかけます。木こりは意味がわかりません。
 「はい?」
 「あの、それ、ちょっと。音がはいっちゃうんですよ。」
 「はい?」
 「うーん。困っちゃったな。その、撮影してるんですが、ちょっと、ちょっとだけでいいんで、   音止めてくれません?」
 こういう人って、いますけど、自分が頼んでいるのに、妙にシャイな物言いです。木こりのおっさんは意味がわかりません。山の中には空と木と木こりしかいないのが普通なのです。やがて、木こりにも、テレビだか映画だかの撮影をやりたいといっているのだという意味がわかってきました。     「どのくらいだ?」
 「え?」
 「どのくらい止めりゃええんだ?」
 「ちょっとですよ。」
 「ちょっとってどのくらいだ?」
 「一瞬ですよ。」
 「それはどのくらいだ?」
 「うーん。私がいいですっていうまで。ほんのちょっとですから。」
 そういいながら、携帯でロケ隊に電話をかけはじます。
 「音、止めたから、もう始めちゃっていいよ。オーケー。よろしく。」
 なんだこいつ。私でもイラつきます。はっきり言わない。こっちが頼んでいるんだから分かってよというスタイルです。木こりもイラついてきますが、黙って待っています。でもこのちょっとが、かなり長い。たまらず、枝打ちをし始めます。役所さん60近くなって、がんばって木に登ります。えらい!
 そのうち、撮影も終わったらしく、やれやれと思っていると、この木こり、また撮影隊に出くわします。車がエンストを起こしたらしく、乗せてくれと、監督らしき例のハンチングの男が泣きついてきます。しぶしぶOKを出すと、いっしょに、今風の短パン男が乗り込んできます。こいつ、なにもしません。ハンチングの男が車からおりていろいろ、場所を探しているのに、助手席に座ってボーッとしています。見れば、自分の息子と同じくらいの若造です。
 見かねて木こりは若者に声をかけます。
 「あんたねぇ。少しは手伝ったらどうなんだ。あんたのほうが若いんだから。仕事しろよ。」
 若造はポケットに手をつっこんで、車をおります。でもハンチングの男のそばにいってもなにもすることがありません。ただボーッとしています。
 木こりはハンチングの男に忠告します。
 「あいつ、辞めさせた方がいいよ。あんなの雇っててもしょうがないよ。」
 ところが、この若造が実は監督で、ハンチングの男は助監督です。若造を演じているのが小栗旬。人気があります。カールおじさんの若い頃みたいな顔ですが…いい男です。(へへへ)
 木こりのおじさんの名前は岸さん、若造は田辺幸一そして、岸さんの息子は浩一。字は違うけれど、同じ名前です。おじさん何となく、この息子みたいな若い監督が気になり始めます。最初はロケ地選びにつき合うというだけのはずだったのに、なぜかエキストラもやらされるはめになります。それもゾンビ。顔中青く塗られて出まちしているときの岸さんはなんとも情けない気持ちです。自分の出ているところを見に来いと助監督に誘われて半ばふてくされてラッシュを見に行きます。そこで河原の石ころと変わらないくらいの大きさの自分が映っているのを見て、岸さんに変化が生まれます。木こりとは全然別の自分がそこにいます。(ゾンビですから違うのはあたりまえですが。)
 木こり仲間と昼飯を食っている時に、映画撮影の話が話題になります。
 「岸さん、映画に出たんだって?」
 「うん。まぁな。」
 「えーっ。映画に出たんすか?すごいじゃない。」
 「別に、たいしたことないよ。」
 「あるある、たいしたこと」
 「どんなことしたの。」
 「銃で撃たれるんだ。」
 「すげーっ。」(木こり全員)
 「そんで、倒れるんだ。」
 「すげーっ。」(木こり全員)
 「そんで、また立ち上がって歩くんだ。」
 「すげーっ。」(木こり全員)
 「そんでまた、撃たれて、」
 「ふんふん、そんで?」
 「そんでよ。また倒れんだ。」
 「すっげーっ。」(木こり全員)
 岸さんの顔はうれしさを抑えようとしても抑えられない顔です。それから、岸さんは映画の撮影にのめり込んでゆき、ロケ隊の世話を焼き始めます。
 岸さんの映画への情熱とはウラハラに、監督は絶望的な気持ちになっていました。脚本を書いてみたら採用になってしまって、自分でも驚いている男なのですから、あんまり自信がありません。自分よりも年上のスタッフの使い方もあまりよくわかりません。ジンクスや、タブーに振り回され、靴下の色にさえこだわり、大好きな甘いものも食べられません。
 そんなこんなで、プレッシャーに押しつぶされ、脱走を企てます。そして、あろうことか、岸さんに駅まで送ってくれるように頼みます。岸さんは楽しい映画作りに参加できてルンルンです。田辺監督が
 「僕は監督の椅子が合わないんです。」というと、木を削って、でかい椅子を作ってきます。
 「これなら、立派で貫禄もあるべ。監督の椅子にぴったりだろ。」
 意味がわかっていません。
 監督から渡された台本は、ゾンビと人間が戦って、ゾンビになった息子と娘が戦うという映画なのですが、なぜか岸さんは木下恵介の映画みたいに感激して泣いてしまいます。監督も脱走に失敗して連れ戻され、撮影は進みます。
 そのうちに、監督は少し仕事になれてきます。そして山崎努扮する大御所の役者がやってくると、しどろもどろながらも、ダメだしをします。その後、痔持ちの山崎大御所に呼ばれて、スナックに行きます。怒られるとおもいきや、
 「いやー、監督よかったよ。今度またよんでね。」
 リップサービスだったのかもしれませんが、田辺監督は感激して泣き出してしまいます。田辺監督にささやかながらも自信が生まれてきました。
 一方、岸さんはあんまり映画の撮影に熱中しすぎて、奥さんの法事を忘れていました。実家へ帰って来た姉さんに説教されます。
   「あんた、明日は何の日かわかってるの。女房の命日忘れて何してるんだ。」
 慌てて、家に帰ってみると、きれいに掃除が済んでいて、法事の準備ができています。傍らには掃除でくたびれたのか、息子の浩一が口を開けて寝ています。岸さんは我に返ります。雨が降っても洗濯物も取り込まないし、東京いって一旗揚げるなんてバカみたいなこといっていた息子が、自分が忘れてた女房の法事のためにきちんと部屋を掃除していた。オレはなにを熱に浮かされていたんだ。岸さん、ちょっと反省します。そして、息子を見直します。
 法事の日、親戚のおっさんが、息子に言います。
 「おめぇ。仕事やめたんだって。就職しねぇのか。」
 息子が黙っていると、
 「まぁ、オヤジさんの仕事継げばええでないか。オヤジもそう長い事やれる仕事じゃねぇし。」
 息子が一番悩んでいることに、平気で踏み込んでくる嫌な親戚です。よくいます。こういうヤツ。
 すると岸さん、
 「やめろ。浩一の考えもあるんだ。」
 とそのおっさんを怒鳴ります。以前にこんな事はなかったのでしょう。息子はオヤジが自分をかばってくれた事にびっくりします。
 さて、監督の田辺幸一君は仕事に慣れてきました。スタッフからも監督と普通に呼ばれるようになってきました。ジンクスやタブーも気にしなくなりました。ゾンビ映画も、今日でクランクアップです。でも、お天気の具合がよくありません。案の定、大粒の雨が降ってきました。ゾンビ役のエキストラの人たちも寒くて震えています。助監督たちが聞きます。
 「みんな寒いっていってるし、このくらいの雨なら消せますから、早く取ってしまいましょう。」
 急かされて、田辺監督はどうしていいか迷っています。雨が上がってから撮影したい。でも、止みそうもないし・・・どうしよう。黒い靴下をはくのはタブーだったのに、今日履いて来ちゃったからなぁ。まずかったかなぁ。なんて思っていると、
 「晴れるぞ。」という声が耳元で聞こえます。
 そして、森の中から、人が飛び出してきました。岸さんです。まるで、スーパーマンみたいな登場です。雨の中を走ってきた岸さんは田辺監督に確信に満ちた顔で言います。
 「この雨はもう少しであがる。」
 田辺監督はスタッフに向かって
 「雨がやむのを待ちましょう。」ときっぱりいいます。
 そして、みんなが待っていると、岸さんが言う通り、雨はやみ、嘘のような青空が現れます。撮影は順調にすすみ、ゾンビと人間の対決は人間がゾンビに食べられて大団円をむかえます。血だらけの俳優やエキストラ、スタッフたちはみんな笑顔で、握手をし、抱き合い、記念撮影をしました。
 それから1年後、岸サンは、相変わらず山で木をきり、息子の浩一君も木こりになっています。田辺幸一君はというと、まだ、監督をしていました。岸さんがつくってくれた、丸太のディレクターチェアーを引きずりながら。
 この映画のおやじは、若者を導くというよりも、ええ年のおっさんでも成長するのだということを教えてくれます。岸さんが田辺監督に木の話をする場面があります。
 「あんた26だって。すると、あのくらいかな。あの細いやつだな。そんで、オレがあの木だな。60年でもあんな程度だ。立派な木になるには、ほれ、あのくらいになるには、100年かかるんだ。」
 岸さんは、撮影隊にかかわり、息子と同じ名前の若造とふれあって、自分の生活の見過ごしていた部分に気づきました。そして、山の木と同じようにちょっと成長したのでした。

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